お湯が水より先に凍るというムペンバ効果。NHK の「ためしてガッテン」で放映された後、大槻氏の反論を含め、ブログなどを通して議論が起こり、JCAST のカバーした記事が、Yahoo のトップページに掲載されるまでになった。
ムペンバ効果自体は、起こりうる現象(いつも起こるわけではない)だし、まだメカニズムをうまく説明できていないことに変わりない。この現象をもう少し理解するには、かなりしっかりした実験が必要だ。この辺については、apj 氏の以下の記事が、過去のpaper の要約もあり、秀逸かつ信頼できる内容になっている。
ムベンバ効果調査中(1) ムペンバ効果調査中(2):「ためしてガッテン」でどう扱われていたか 誤解されたので書いておく ムペンバ効果調査中(3):ムペンバ君の報告 ムペンバ効果調査中(4):J-CASTニュースの記事本日のエントリは、ムペンバ効果がもたらした「効果」ということについて。ムペンバ効果それ自体ではなく、こうした未解明な問題に対して、人がどのように振る舞うのか、ということ。流れを簡単に整理すると以下になるかと思う。
1: 不確定現象を必ず起こるかのように紹介 → NHK「ためしてガッテン」
2: ポイントのズレた単純化した反論 → 大槻氏
3: ぐちゃぐちゃが始まる → ブログ議論
4: それをメディアがさらに拡大 → JCAST
5: 信頼できそうな研究者がズレた発言 → 前野氏(JCASTにて)
話は少し遡り、NHK の放送に先立ち、前野紀一氏がSeppyo-Talk という雪氷学会が運営する一般の方も登録できるメーリングリストで以下のような発言をしている。
Mpemba Effectとは、お湯と水をそれぞれ同じ容器にいれて低温のもとに放置したときお湯の方が早く凍ることがある、という現象です。この現象は西洋では2000年も前から知られていましたが1960年代にムペンバというタンザニアの高校生が「再発見」するまであまり話題になりませんでした。私はその頃カナダの大学にいましたからそれを知っていましたが、自分自身はその詳細を調べることはまったくせず、また日本の雪氷や物理の学界にも紹介することを怠り今日に至りました。
ところが今回NHKからこの現象を「ためしてガッテン」で扱いたいと相談されました。私は初めは反対していたのですが、面白い現象なので、メカニズムについてはまだ信頼すべき精密な測定が行われれていないと説明する、という条件で放映に同調することにしました。
これまでMpemba Effectを調査したという報告は数え切れないほど多数発表されています。しかし、残念ながらどれもこれも厳密さと論理において不満足なものばかりで、素人研究の域をでていません。その理由ははっきりしています。この現象には多数の物理因子が関係しているため、科学的に満足な調査をするためには相当周到な研究が必要だからです。温度や容器だけをパラメーターにする素人研究では絶対解明できない難問です。しかし、それにもかかわらず、素人でもまた子どもでも挑戦できる点が、この現象の魅力でもあります。
[Seppyo-Talk 851]7月6日配信より抜粋引用、強調は引用者による
重要な点は、引用文内で強調した以下の2つであるように思われる。
1: 放送にあたっては未解明の問題である注意喚起が必要と指摘した
2: 発表されているpaper は素人研究の域にあると考えている
前野紀一氏が、注意喚起したのは、専門家として「未解明の要素があるので、メディアの単純化した放送構造には馴染まないであろう」という、ごく常識的な考えだったと思うし、その指摘は正しいと思う。ただし、そうした進言に対し、メディアがこちらの見解を尊重してくれるような存在ではない、という想像力が足りなかったのではないだろうか。
前野氏は、恐らく、もっと強く言っておけば良かった、と後になって思ったのであろう、それが、7月6日のSeppyo-Talk の書き込みに繋がっている。事実、このメールの最初には、次のような言葉が書かれていた。
7月9日(水)20:00-20:45 放映のNHKためしてガッテンで「ムペンバ効果(Mpemba Effect)」が紹介されます。無駄な誤解が生じないよう予め雪氷学会の皆さんに経緯をお知らせしておきます。
この件については、前野氏に対して、多少同情的であるが、NHK は断定的な報道について、反省しているそぶりはない。以下は、
朝日新聞に載った広報のコメント。
実験を繰り返し、高温水の方が早く凍るということを確認したうえで番組を制作しました。誤解を与えたとは考えていません。
2008年7月31日 asahi.com からの引用
一方で、「いずれも素人研究の域をでない」という2点目については、いかがなものだろう。apj 氏の「ムペンバ効果調査中(3)」のコメント欄に、以下のようなapj 氏からの書き込みがある。
実験するにしても、
S.Esposito, R De Risi, L. Somma "Mpemba effect and phase transitions in the adiabatic cooling of water before freezing", Physica A 387(2008)757-763.
や、
David Auerbach "Supercooling and the Mpemba effect: Whern hot wter freezez quicker than cold", Am. J. Phys. 63(1995)882-885.
の精度は確保した上で、それを越えないと研究としては意味が無いんですよ。でもって氷の結晶ができはじめる時間が本来ばらつくものだというのは、この論文2つで尽きていると思うんですね。追試の必要があるかというと、既に独立に2つの論文が出て同じ結論である上、普段の他の実験の状況とも矛盾しないので、そんなに必要ではない。
ひょっとして、前野氏はムペンバ効果について調べていない、とか・・・・・・。それとも、上記2本の論文も、素人の域をでない、と考えているのだろうか。Seppyo-Talk では、いくつかやりとりがなされたようだが、樋口敬二氏の書き込みも、前野紀一氏と同種のズレを感じる。樋口敬二氏は中谷宇吉郎の弟子であり、雪結晶の研究で成果を残した方である。名古屋市科学館の館長も務めた。以下に引用する。
Seppyo-talk 867 で申したように、日本における「ムペンバ効果」の認識と普及に関するデータを集めておりますが、その中に参考になる情報があれば、順次でお知らせしたいと思っています。
先ず、ご存じの方もあるかと思いますが、物性物理学の金森順次郎さんが「これからの基礎科学」という講演で、「科学の隙間にあるもの」の例として「ムペンバ効果」を挙げておられることです。
昨年3月3日開催の山田科学振興財団の設立30周年記念パネルデイスカッションで、江崎玲於奈、金森順次郎、野依良治、岸本忠三、永井克孝といった錚々たる人達による基調講演の一つとして行われた 金森氏の講演「これからの基礎科学ー国際高等研究所の経験からの管見ー」の中での発言です。
[Seppyo-Talk 868]7月21日配信より抜粋引用
樋口敬二氏は、この資料を「是非 御一読をお勧めします」としているので、読んでみることした。記事は「
ここ」にPDF であるが、ムペンバ効果に記述のみ以下に引用する。
■科学の隙間にあるもの
ここで、その例をひとつあげます。「ムペンバ効果(The Mpemba effect)」という言葉を聞いたことがあるでしょうか。ムペンバはタンザニアの高校2年生の名前だったように記憶していますが、彼は熱い水と冷たい水をコップに入れて冷蔵庫に入れたら、どちらが速く凍るかを試しました。誰もが、熱い水のほうが遅く凍ると思うところですが、実際には、熱い水のほうが先に凍ります。
この現象には、過冷却が関与しているのではないか、蒸発が原因ではないか、水素結合でつながった水の分子構造に何らかの関係があるのではないか、などいろいろな議論がありますが、実のところはよく分かっていません。もしかしたら、そもそも水の温度や圧力だけで何かいうのは間違っているのかもしれません。
(中略)
図5は、熱い水を冷蔵庫に入れて冷やしたときの温度変化を示しています。横軸が時間で、縦軸が温度です。実線と点線はそれぞれ高温、低温の水がたどる温度変化の大体の様子を示しています。熱い水を入れたほうが早く氷になるというのは真実のようです。しかし、常に再現性があるかどうかがわかっていないのが、厄介なところです。著作権の関係で実験の図等はお見せできませんが、くわしくはhttp://www.math.ucr.edu/home/baez/physics/index.html/のGeneral Physicsの中のHotwater freezes faster than cold!をご覧ください。
「これからの基礎科学ー国際高等研究所の経験からの管見ー」から抜粋引用
記事のアドレスがリンク切れており、金森順次郎氏が読まれたのは、たぶん「
こちら」の記事だと思う。金森氏の記述は、未解明なことについて言及する際の「細やかさ」というか「言葉の用い方」について配慮が足りないではないだろうか。言い切り型の文章にとても違和感を持ってしまう。
こうした未解明なことについて、研究者と一般の人の間には、理解の仕方が異なってくる。それは前提が異なるからであろう。よって、研究者側がかなり発言に注意しないと、無用の誤解の原因となっていく。今回についても、前野紀一氏が不用意な表現の発言をJCAST の記事
「水よりお湯早く凍る論争沸騰 日本雪氷学会で本格議論へ」でしている。以下引用。
前野名誉教授は、家庭で手軽に実験できるのがいい点としながらも、ムペンバ効果そのものの解明はできないという。「コンピューターシミュレーションでも解明できないような難しい現象が、単純な形で現れているからです。物理の専門家はいかに難しい問題であるかをよく知っていて、プロジェクトを組まないと分からないものなのです」。
問題点は2つ。
・コンピューターシミュレーションを持ち出す必要がない
・専門家でなくとも、問題構造は理解できる
現象の解明に必要なのは、各種条件を制御した実験装置を用意するなど、具体的な実験デザインという方向のアプローチでいいのではないか。なぜ、ここでコンピューター・シミュレーションという言葉がでてくるのか理解できない。
wikipedia だが、以下の記述は参考になると思う。
通常シミュレーションは現象の全てを試行要素とせず、対象要素を絞り込むことにより要素が現象に与える影響を検証する事が主な目的とされる。よって、結果が完全に不確定な事象を検証することは困難とされる。特にコンピュータを用いた積算によるシミュレーションは、基本的に線形近似による計算となるため、非線形要素を含む自然現象をシミュレートする場合は必ず誤差が生ずる。
また、未解明の問題構造自体は、専門家でなくともapj 氏のようなテキストを読めば理解できる。何か得体の知れない未知の現象という印象論的な文章よりも、ゴミや使用する水、冷蔵庫のサーモスタットなどなど、どのような撹乱因子が存在するのか、という具体的記述のほうが、コンピューター・シミュレーションを持ち出すより、遙かに有益だ。
今回の件が明らかにしたのは、「名選手、かならずしも名監督ならず」のような話なのだろう。ある分野で素晴らしい研究成果を挙げた前野紀一氏のような人であっても、「教育・啓蒙」というカテゴリにおいては、かならずしも良い教師ではない、という意味において。apj 氏のような人が雪の世界にもいてくれたらいいのに、と思う。