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星野監督にみる敗因と分析

北京五輪で惨敗した野球の監督である星野氏が「敗軍の将、兵を語らず」という故事成語を持ち出し記者会見をしたことが報道されています。あちこちのブログでも取り上げられているようです。

『史記』は、日本語の中に取り込まれた言葉や表現も多く、馴染み深いものですが、その背景にある思想は「天道是か非か」であると言われています。天道とは、平易にいえば神様のような存在である「天」の働きを人格的に捉えることで、それが世界全体の秩序を司っていると考える思想。

当時(2000年前)は、天道が正しく働いてくれると信じるからこそ、人間は安らかに毎日を送ることができると信じていたのですが、司馬遷は不遇も受けたこともあり、また歴史をみれば必ずしも正しい者が勝利を収めているわけでもなく、正当な評価を受けていないという事実から、壮大な史書を通して、このテーマを問い掛けているわけです。


敗軍の将、兵を語らず」は、戦いに敗れた将軍は兵法について語る資格はなく、失敗した者は潔く失敗を認め弁解がましいことを言うべきではない、という一種の清さの象徴として引用されることが多いのですが、裏返せば、問題を議論のまな板に載せることを拒む姿勢とも取れます。

「俺達は精一杯頑張ったのだから、それでいいだろう。結果は神のみぞ知るだ。面倒なことをグチャグチャ聞くんじゃない。もう終わったことだ。次に向けて頑張る」という言葉は議論を拒むステレオタイプな表現です。「敗軍の将、兵を語らず」を英語にすると「Give losers leave to speak.」となります。「敗者にも発言を許せ」です。文化の違いを感じざるを得ません。


星野氏の言い訳を聞いていると、山岳で事故を起こした一部ガイドの言い分にそっくりなことがわかります。事故後、現場でいかに救助活動を頑張ったのかだけを強調し、事故原因についてはまったく言及しないというパターンです。

問題を適切に捉え、具体的に対象化し、整理し、言語化し、平易に説明する能力は、教育と訓練によってしか身に付きません。それがなされていないのです。野球の場合、監督という専門職が成立していないのが悲劇的です。現役を止めた選手がすぐに監督をする行為自体が、日本の野球界は監督という職種を専門職として見ていない証明ですから。


日本では、原因と責任をわけて考えるのが苦手な人が多いように感じます。事故原因を考察したとしても、それは責任追及をしているのではない、ということを理解していないと言えます。これをわけて考えることができない、もしくはしないのは、2つの理由に因ると思われます。

1: 人はミスをする生き物であることを理解していない
2: 責任を何しろ負いたくない

1を理解していれば、どのような事故であれ、采配ミスであれ、誰でも(自分を含め)それをおかす可能性があることがわかります。そして、人は失敗から学ぶものです。2については、どうしようもありません。そこに表出するのは、その人の人間性そのものですから。


「人は失敗から学ぶ」という立ち位置にいるのなら、敗者は語る必要があるのです。
 
 
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tag : 敗軍の将

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