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富士山の初冠雪日分布

読売新聞に以下のような記事が載りました。

富士山初冠雪、今年は8月9日…94年ぶり最速記録更新
甲府地方気象台は27日、富士山で8月9日に観測された冠雪が今年の初冠雪だったと発表した。

 観測を始めた1894年以降では最も早く、1914年に記録した8月12日を、94年ぶりに更新した。また、昨年より58日、平年と比べて53日早かった。

 富士山では、山頂の1日の平均気温が年間で最も高くなった日以降、甲府市にある同気象台から初めて冠雪を目視で確認できたときを初冠雪としている。今年は7月21日の平均気温が10・6度で最も高く、今後も上回る見込みがないという。

 山頂の山小屋の従業員によると、9日は山頂から8合目にかけてひょうが降り、3センチほど積もったがすぐに溶けてしまったという。

2008年8月27日21時22分 読売新聞



この8月9日は、富士山で落雷事故のあった日でもありましたね。
甲府地方気象台に過去の初冠雪データがありましたので、初冠日の分布図を作ってみました。

富士山初冠雪の分布図


何箇所か下方(早い時期)に飛び出ている数値がありますが、以下。
 1914年8月12日
 1935年8月17日
 1994年8月21日
そして一番右側の2008年8月9日と、8月中の初冠雪は4回だけです。

一番遅かったのは
 1956年10月26日
となります。

分布図を眺めて頂ければわかりますが、
9月中旬から10月上旬のおよそ20日ほどの間に収まります。
それがこの100年ほどの傾向ということかと思います。

ある一つの現象で「これは・・・だ」としないことですね。
地球温暖化問題などで、Risk不安を煽る人たちがよく使う手ですが。

tag : 富士山初冠雪

痛々しい遺族の要望書

先日「大日岳遭難事故その後」としてエントリしたご遺族の「要望書」がサイトにアップされていました。簡潔な文書ですが、以下抜粋。

当時の研修に参加した講師方が事故の原因及び反省すべき点が何であると考えておられるのか、その証言が不可欠である。すでに裁判は終結しており、講師は勇気を持って、正直な意見を述べ、生きた教訓を残して頂きたい。



ご遺族のお気持ちはわかりますが、厳しいかも知れませんね。厳しいとは、登山研修所に申し入れをしたところで、その声が果たして届くのだろうかということです。過去の経緯からわかるのは、行政機関によく表出する「委任の形式を使った問題からの逃避」ですし・・・。

ですから、登山研修所に申し入れを行っても、「本庁のほうの指示に従って執り行います」と言われ、本庁では「安全検討会の示した方向性に合致するように努力します」という答弁でしょうね。そして安全検討会は、「事故の再検証が必要である」との一文を入れませんでしたので、遺族が望んでいるものが実行されなくても、組織機関の中にそれを咎める人がいない。

よって、遺族が寄って立つところは、登山研修所関係者の「良心」でしかない。ところが、過去の経緯が明らかにしているのは、事故関係者に良心があれば裁判が起こることもなかったし、裁判が長引くこともなかった・・・なのですから、今回の出された要望書は、痛々しくてしょうがない。


であるならば、むしろ当事者に直接インタビューされたほうが効果的なのではないでしょうか。ただ、心理的にとてもつらいであろうことは想像できますので、こちらの選択肢もかなり厳しいものではあるには違いないでしょうが。

亡くなった二人の大学生を引率していた高村眞司氏は活動を再開していて、公的な場でも発言しているようです。たとえば「ここ」。一体、何をしゃべられたのか興味あるところです。こうした場で話をするより、ご遺族に向かって、まずはきちんと話をするほうが大事であると思うのですけど・・・。


事故とその後については「いつか晴れた日に」というブログがやや冗長ながらよく整理されており、「ここ」もしくは「こちら」あたりを読めば、概略は把握できるかと思います。
 
 

tag : 大日岳

安井至氏があちら側にいってしまった件

ごくまともな研究者が何かのきっかけであちら側にいってしまうということは意外とあるもの。マイナスイオンを批判している頃は、まともだった。『水からの伝言』あたりでちょっと怪しい感じになってきた。「反証実験をすべき」と主張し、apj氏に「そんなものいらんだろ」と言われていた。

そして、地球温暖化問題がヒートアップしてくるにつれ、急速劣化というか、馬脚を現すというか、はたまた信仰心の虎の尾を踏まれたのか、もう意味不明状態。たとえば武田邦彦氏の本を「読まずに批評」し、サイトに掲載。「それはいくらなんでも不適当でしょう」というブログ読者からの突っ込みに「読まなくてもわかる」と豪語。

確かに、武田氏の本は、不適当と思われる表現や問題ある数値の使い方があるのは事実だけど、それで全てが埋め尽くされているわけでもない。是は是非は非として、批評していくのが「大人」の振る舞い。同じ頃、割り箸問題でも林業系について基本知識がないにも係わらず、断定的に記述し、突っ込まれていた。これも妥当な回答をしないままブログ放置。

その後、迷走エントリをいくつか書いていたものの、今度は丸山茂徳氏の本について、見事なエントリが立っていた。まず、本のまえがきについて書いている。

現在の日本で、もっとも過激な反IPCC論者は誰か、と言われれば、それは、東京工業大学の丸山茂徳教授なのではないか。

 たまたま本屋に行ったら、「科学者の9割は地球温暖化CO2犯人説はウソだと知っている」という超刺激的な題名の本を発見。宝島社新書だからそんなものだが、題名で売ろうという魂胆丸見えの情けない本であった。

 その論理の正当性・不当性を解析してみたい。
 ISBN978-4-7966-6291-8、648円+税、2008年8月23日第1刷


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C先生:これまで、丸山氏の論理を解析したことは無かったので、良い機会だ。

A君:「まえがき」がこんな刺激的な記述で始まります。

 「2008年5月25日~28日、地球惑星科学連合会(地球に関する科学者共同体47学会が共催する国内最大の学会)で「地球温暖化の真相」と題するシンポジウムが開催された。その時に、過去50年の地球の温暖化が人為起源なのか、自然起源なのか、さらに21世紀はIPCCが主張する一方的温暖化なのか、あるいは、私(丸山)が主張する寒冷化なのか、そのアンケートを取ろうとした、ところがその時次のような発言が飛び出した。『このアンケートを公表したりして、何かを企む人が出るのではないか』。
 これには驚くだけでなく、今日の温暖化狂騒曲を作りだした問題の本質があるという実感を得た」。

 (一行省略)
 「学会の数は、今日世界全体で約2000に達している。これらの科学者共同体は、趣味の会ではなく、巨額の国民の税金の上に成り立った公的役割を担い、研究の最前線を社会に伝える責任を負っている。その責任を多くの科学者が忘れているのである。
 彼らは科学者を「社会で選ばれた知的遊民」であると考え、「社会が科学者に無償の奉仕をするのは当然」であり、「それに応える社会的責任などはない」と思っている」。

 「シンポジウムで行われたアンケートによれば、「21世紀が一方的温暖化である」と主張する科学者は10人に1人しかいないのである。一般的にはたった1割の科学者が主張することを政治家のような科学の素人が信用するのは異常である。科学の世界に閉じた論争では、少数派の説ではあっても、ガレリオが唱えた地動説の例のように、後に真偽が逆転することもある。しかし、科学の世界だけでなく、社会まで巻き込み、毎年数兆円に上る巨額の国民の税金を投資する場合は違うであろう。たった1割に過ぎない科学者の暴走を許してしまった科学者共同体の社会的責任は大きい。
 またそのアンケートで10人のうち2人は「21世紀は寒冷化の時代である」と予測する。予防原則に従って、地球温暖化対策を正しいと正当化する科学史家が少なからず存在する。これは間違いである。もし予防原則に従うならば、寒冷化対策の方がはるかに深刻で重要であろう」。

 「そして、21世紀の気候予測について、残りの7人は「わからない」と答えている」。


A君:突っ込みどころ多々ですが。

B君:まず、アンケートの本文が出ていないのが問題。実際、アンケートの結果を参照するときには、その正確な表現を示した上で議論すべきだ。

A君:アンケートに答えるときには、本当に、気を使いますからね。この本の記述から推測すれば、多分、こんな風だった。

(1)「21世紀が一方的温暖化である」
     10人中1人
(2)「21世紀は寒冷化の時代である」
     10人中2人
(3)「わからない」
     10人中7人



アンケート本文を知りたければ、問い合わせるのが「まとな大人」の行動ですが、安井氏はしません。そしてアンケート内容を、想像しています。いいですか「想像のアンケート文」です。ところが、下では、それが「実施されたアンケート」にすり替わってしまいます。

A君:結論から先に議論していますが、

(1)「21世紀が一方的温暖化である」
(2)「21世紀は寒冷化の時代である」
(3)「わからない」

というアンケートそのものがおかしい。極めて非科学的で、どう回答したらよいか分からない。

B君:「一方的」という限定が付いていれば、それは、「地球の揺らぎは大きいから、一時期は寒冷化するだろう」、という常識的な反応をして、(1)にイエスとは言えないのがあたり前。

A君:どれを選ぶと言われれば、当然(3)。より正確に表現せよ、と言われれば、「確定的なことは言えないが、もしも、温室効果ガスを出し続ければ、当然、温暖化傾向は増大するだろう。しかし、本当に温暖化するかどうか、それは地球と太陽に聞いてみないとなんとも言えない」。

B君:それにしては、(2)が2人もいるのはどういうことだろう。



イタ過ぎる・・・・・・。もう笑い飛ばすしかないでしょう。
「市民のための環境学ガイド」には良い記事も多々あるのですが、
今は昔、もはや安井至氏は完全にオワタ、ということでしょう。


丸山茂徳氏の本のまえがきにでてくる地球惑星科学連合会のセッションは正式には「21世紀は温暖化なのか、寒冷化なのか?」というもので、こちらでabstract が読めます。仮説を述べ、議論するのが科学の流儀ですから、仮説を述べることさえはばかれるようになっていることに、危機感を持っている科学者は結構います。

 

tag : 地球温暖化安井至

星野監督にみる敗因と分析

北京五輪で惨敗した野球の監督である星野氏が「敗軍の将、兵を語らず」という故事成語を持ち出し記者会見をしたことが報道されています。あちこちのブログでも取り上げられているようです。

『史記』は、日本語の中に取り込まれた言葉や表現も多く、馴染み深いものですが、その背景にある思想は「天道是か非か」であると言われています。天道とは、平易にいえば神様のような存在である「天」の働きを人格的に捉えることで、それが世界全体の秩序を司っていると考える思想。

当時(2000年前)は、天道が正しく働いてくれると信じるからこそ、人間は安らかに毎日を送ることができると信じていたのですが、司馬遷は不遇も受けたこともあり、また歴史をみれば必ずしも正しい者が勝利を収めているわけでもなく、正当な評価を受けていないという事実から、壮大な史書を通して、このテーマを問い掛けているわけです。


敗軍の将、兵を語らず」は、戦いに敗れた将軍は兵法について語る資格はなく、失敗した者は潔く失敗を認め弁解がましいことを言うべきではない、という一種の清さの象徴として引用されることが多いのですが、裏返せば、問題を議論のまな板に載せることを拒む姿勢とも取れます。

「俺達は精一杯頑張ったのだから、それでいいだろう。結果は神のみぞ知るだ。面倒なことをグチャグチャ聞くんじゃない。もう終わったことだ。次に向けて頑張る」という言葉は議論を拒むステレオタイプな表現です。「敗軍の将、兵を語らず」を英語にすると「Give losers leave to speak.」となります。「敗者にも発言を許せ」です。文化の違いを感じざるを得ません。


星野氏の言い訳を聞いていると、山岳で事故を起こした一部ガイドの言い分にそっくりなことがわかります。事故後、現場でいかに救助活動を頑張ったのかだけを強調し、事故原因についてはまったく言及しないというパターンです。

問題を適切に捉え、具体的に対象化し、整理し、言語化し、平易に説明する能力は、教育と訓練によってしか身に付きません。それがなされていないのです。野球の場合、監督という専門職が成立していないのが悲劇的です。現役を止めた選手がすぐに監督をする行為自体が、日本の野球界は監督という職種を専門職として見ていない証明ですから。


日本では、原因と責任をわけて考えるのが苦手な人が多いように感じます。事故原因を考察したとしても、それは責任追及をしているのではない、ということを理解していないと言えます。これをわけて考えることができない、もしくはしないのは、2つの理由に因ると思われます。

1: 人はミスをする生き物であることを理解していない
2: 責任を何しろ負いたくない

1を理解していれば、どのような事故であれ、采配ミスであれ、誰でも(自分を含め)それをおかす可能性があることがわかります。そして、人は失敗から学ぶものです。2については、どうしようもありません。そこに表出するのは、その人の人間性そのものですから。


「人は失敗から学ぶ」という立ち位置にいるのなら、敗者は語る必要があるのです。
 
 

tag : 敗軍の将

白馬大雪渓ルート再開問題

信濃毎日新聞の8月22日に以下のような記事が出ました。

白馬大雪渓ルート入山禁止解除探る 専門家は判断の難しさ指摘
8月22日(金)
土砂崩落のため北安曇郡白馬村が「入山禁止」を呼び掛けている北アルプス白馬大雪渓の登山道について、太田紘熙村長は21日、専門家による崩落現場の調査を早急に行い、安全確認ができ次第、解除する考えを示した。村内では多くの観光客が訪れる人気登山ルートの再開を望む声が上がる。一方で、専門家は入山禁止を解除する判断の難しさを指摘している。 (中略)

 村観光局によると、白馬大雪渓への入山者は7、8月だけで約1万人。9、10月も白馬大雪渓を含む北ア北部の山岳に約7千人が訪れる。同局の松沢晶二次長は「観光全体への波及を考えるとルート再開は早いほうがいい」と話し、太田村長は「再開を望む宿泊業者の声も聞く。2次災害が起きないと判断できれば、解除したい」とする。

 一方、10年余にわたり崩落現場一帯の地質調査をしている専修大学の苅谷愛彦准教授(42)=地形学=は「土砂崩落は標高の高い山の宿命。2次災害がないとは断言はできない」と指摘。20日、崩落現場を調査し、今後崩れる可能性のある土砂を現場上部で確認したといい、「あいまいな情報で登山者を招き入れることは危険。一帯の危険性を十分周知した上で再開すべきだ」と忠告している。



以下のような点で考えてみました。
1:どのような安全確認作業・調査が行われるのか?
2:そもそも安全とは何を想定しているのか?
3:リスク評価はどの程度可能なのか?
4:自然科学と政治経済そしてメディア
5:行動マネジメント
6:まとめ


1:どのような安全確認&調査が行われるのか?
ヘリコプターからではなく、当然、現地調査が必要でしょうから、それがきちんと実施され、調査内容が公開されるのかが興味あります。現時点で、信頼できるソースといえるのは、現場に行かれた苅谷愛彦氏の言葉でしょう。「今後崩れる可能性のある土砂を現場上部で確認した」とありますから、それに対するリスク評価が待たれるところです。

2:そもそも安全とは何を想定しているのか?
2005年の杓子岳側の崩落の際もそうでしたが、行政が発する「安全宣言」なるものが理解できません。地質および地形を考えれば、潜在的なリスクがある場所なのですから、できることは、2つしかないと思います。

一つは、そのリスクがどの程度の大きさになっているのか、もう一つは、リスク軽減の行動を人間側が何か取っているのか。さらに、今回の事故と関係あるエリアのみを考察するのか、それとも山域全体として考えるのかでも異なってきます。


3:リスク評価はどの程度可能なのか?
資料がないかと探したところ、建設省河川局砂防部が作成した「土石流対策事業の費用便益分析 マニュアル(案) 平成12年度版」という文書がありました。

ここでは、全国の確率雨量と比較し、2年~20年超過確率以上の降雨によって大部分の土石流が発生していることから、マニュアルでは10年超過確率以上の降雨によって土石流が発生するものと仮定して対策工事等を考える、としています。以下のグラフは、平成4年以降5ヶ年に全国579渓流で発生した土石流時の時間雨量、日雨量です。
土石流発生雨量

また、地すべりについても「地すべり対策事業の費用便益分析 マニュアル(案)」があり、発生規模と頻度の設定について、以下のような記述があります。

地すべりは降雨や地下水の変動などを誘因とする自然現象であり、同様の誘因が発生した場合であっても地形や地質の素因の違いにより、発生規模や頻度は大きく異なる。

地すべり災害の発生規模と頻度との関係を評価するための手段には、素因の違いを考慮しながら災害実績を評価する方法と、地すべり運動をモデル化し数値シミュレーションなどによって評価する方法が考えられる。

しかしながら、国内に分布する地すべり地では、地すべり対策の効率性などの観点から、地すべり地内においてなんらかの変動が見られた場合には、速やかに地下水排除工などの応急対策工事が実施されるため、対策工事が実施されない場合の被害の実態を把握することは困難であり、従って、災害実績から地すべり災害の発生規模と頻度との関係を評価することはできない。

また地すべり運動をモデル化し、現在までに得られた降雨などの誘因とその発生規模などの資料をもとに解析を行う場合には、地すべり運動に係わる地質定数(透水係数、内部摩擦角、粘着力)を代表値でシミュレートせざるを得ず、実際に発生した土砂移動現象の規模と異なる場合も考えられる。

さらに地すべりの移動土塊は、通常であれば地すべりブロックの2倍の範囲で停止するが、移動土塊が沢などに流入した場合には、土塊は流動化し地すべりブロックの2倍の範囲を超えて停止する場合もある。このような場合にも、想定した地すべり災害の規模は実際に発生した地すべり災害の規模と異なることとなる。

以上のように、地すべり災害は発生規模と頻度との関係を設定することが困難であり、河川のように降雨の規模に応じて洪水の規模が定まり、従って災害の規模も決められるという現象ではない。

このような地すべりの特性から、従来地すべり対策において、被害発生確率、あるいは被害規模を想定することは行ってきておらず、経験的に想定される最大規模程度の日がい想定区域を想定し対策を行っていた。




こうして同じ対策費用便益分析の書類を見ると、地すべりと土石流で観点が異なっていることが興味深いです。土石流は発生確率論を用い、地すべりは応急対策をすぐにしてしまうので、わからない、と。こうなりますと、土砂崩落の発生リスク評価には、土石流的な視点、つまり降雨量などを目安にすることが考えられますね。とても大雑把な指針となるでしょうが。


4:自然科学と政治経済そしてメディア
自然に身を曝す人は、自然を理解する以上に「人間を見抜くことが必要」であるように思います。たとえば、自然科学者と研究者はイコールではありません。研究者という大きな枠の中に、自然科学者もいるし、おかしな研究者もいる、ということです。自然科学者は自然現象に対して誠実ですが、おかしな研究者は、事実よりも資金提供者に都合の良い発言をします。

特に自然災害系(土砂崩落、地震、雪崩等)は、再現性の問題や定式化が困難であることから、権威主義的なものを背景としておかしな人が跋扈しやすい土壌であることを、ユーザーは理解しておいたほうがいいと思います。


行政には専門性がありませんから、その言質を専門家に求めます。これはメディアも同様です。「○○という専門家にお願いした」からという理由により、行政とメディアは判断の責任から逃れることができると考えます。しかし、○○という専門家を選んだ、という選択に関連する責任は生じます。

これに対し、行政やメディアは「○○さんはこの分野の権威ですよ。それを否定するのですか?」という形の反論をします。しかし、いかに権威だろうと、現地をヘリコプターから眺めただけで、土砂崩落の調査はできないものです。もし、ヘリからの視察だけで、安全宣言が出されるようであれば、それは、単に「政治経済の都合」のため、行政が専門家という肩書きを使っただけの話です。そして、そのシナリオに乗った時点で、その専門家は自然科学者ではないということです。


こうした状況を簡単に例えれば、2ch を読む時のようにメディアの報道を読み、専門家の発言を吟味する、ということかと思います。ウソを嘘と見抜けない人に、2ch は厳しいメディアですが、基本的に自然災害に関する情報は、そのようなスタンスでいることが大事に思います。

それゆえ、誠実な自然科学者であればあるほど、社会と対決せざるを得ない局面に立たされることとなります。その典型的な事例が、地球温暖化問題でしょう。赤祖父俊一氏の本を読めば、自然科学者としての義憤が、本を書いた動機であることがわかります。



5:行動マネジメント
上記に取れることは2つと書きましたが、その片方である人間側の問題です。土砂崩落した場所が少し落ち着いたとしても、他の場所も含めて落石などのリスクがある場所ですから、どのようなリスク軽減行動を取るのか、というのが大事でしょう。

先のエントリに事故現場の写真が載っていますが、たとえば、リスクが低い場所(植生が残っている所)からリスクが高い場所(沢状のガレ場)を横断する際、どのような行動を取るか、というテーマがあります。欧米の標準的なガイディングであれば、「人と人の間隔を開けて素早く渉る」が鉄則です。

それゆえ、落石そのものは山岳リスクの一つに内包されますが、基本行動様式を外していて事故となった場合には、ガイドはその責任を免れません。しかし日本の山で目にするのは、数珠繋ぎで渉っているガイドツアーであったりします。

上記記事でコメントを寄せている苅谷愛彦氏(専修大)が興味深い研究を行っているようです。「白馬大雪渓における画像データロガーを用いた落石と登山者行動のモニタリングの試み」と題されたペーパーは、落石の挙動について画像データを用いて解析しようとするものです。

はじめに
長野県白馬村白馬尻と白馬岳山頂を結ぶ白馬大雪渓ルートは北アルプスの代表的な人気登山路である.しかし大雪渓の谷底や谷壁では融雪期~根雪開始期を中心に様々な地形・雪氷の変化が生じ,それに因する登山事故が例年起きている1).特に,広い意味での落石 ―― 岩壁や未固結堆積物から剥離・落下・転動した岩屑が谷底の雪渓まで達し,それらが雪面で停止せず,またはいったん停止しても再転動して≧1 km滑走する現象 ―― は時間や天候を問わずに発生しているとみられ,危険性が高い.大雪渓のように通過者の多い登山路では,落石の発生機構や登山者の動態などを解明することが事故抑止のためにも重要である.本研究では,大雪渓に静止画像データロガー(IDL)を設置し,地形や雪氷,気象の状態および通過者の行動を観察・解析した.




今後は動画での記録・解析も考えているようですから、実現されれば、単に、落石の発生頻度や挙動のみではなく、登山者がどのような行動マネジメントをしているのかも、如実にわかるようになるのでないかと期待されます。ガレ場や雪渓上にある石が動き始めることは、確率論的なものにならざるを得ないことを考えれば、リスク軽減の行動がいかに重要であるか理解できるかと思います。その意味で、実態調査がきちんとされれば、それは大きな意味を持つことになります。


6:まとめ
白馬大雪渓ルートの再開には、現地調査がきちんとなされ、その具体的内容が広報されてほしいと思います。もともと落石事故のある場所ですし、事故を区分し、整理することも必要なのではないでしょうか? それが行われているのか、されていないのか、当方は知りません。

たとえば、落石であっても、自然発生であったのか、それとも人為が関与している可能性があるのか、また単一の岩の落下なのか、土砂崩落のような形での流下なのか、といったように、整理可能であろうと思います。他にもいろいろな視点はありうるでしょう。

それがなされることで、崩落事故が山岳リスクに内包されるものなのか、それとも人的なものが関与していて、事故を避けるもしくはその規模を小さくすることができた可能性があるのか、そうしたことを考えることができると思います。

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